テレビで有名人の恩師がどんな人か特集する番組がやっていて、ふと奥さんが僕に質問しました。
「ヒロさんにも、恩師っておるの?」
「そらおるよ。僕にとって先生といえば、畠瀬先生や。もう10年以上。もうすぐ15年通ってんねんで」
「いつも畠瀬先生の話してるけど、どんな先生なん?」
「どんな先生っていわれてもな~。どういえばいいんやろう…」
その日はいろいろ話したけれど、うまく伝えられませんでした。
でも、これからカウンセリングを学ぶ人にとって、僕と先生の話をすることは、きっと何かの役に立つと思うのです。
たくさんの心理学を学ぶのも大事だけれど、カウンセリングの本質としては、こういう話の方が学びがあると思うのです。
ただ、僕は文章を書くときに、なるべく自分の頭の中の言葉で書くようにしています。
そんなわけで、ここでも僕の脳内の言葉で書くことにします。
僕が先生と書くときは、基本的に畠瀬直子先生のことだと思ってください。
そのほかの先生のことを書くときは、○○先生と書くようにします。
あと、やたらと関西弁が多いですが、先生はもう長い間、関西に住んでいるにもかかわらず、なまりのないきれいな標準語です。
僕のセリフだけ関西弁なのは、そのせいです。
さて、僕が先生と出会ったのは、いまから15年ほど前。まだ僕が28歳の時です。
僕は27歳でカウンセラーとして独立しました。
会社員時代、副業としてやっていたころに書いていたブログ、メールマガジンが出版社さんの目にとまり、独立して3ヶ月後には2社から出版の話が舞い込んできました。
僕はありがたいような気持ちと、そんなことが自分に起きていいのかという、困惑と恐怖感が混じり合った感情になりました。
一番最初に頭に浮かんだのは、
「自分みたいな民間のスクールで勉強しただけのカウンセラーが、本なんて書いていいんだろうか…?
もし間違えたことを書いて、いろんなところからバッシングされたらどうしよう…。やっぱり断った方がいいのかな…」
ということでした。
ですが、独立してまだ3ヶ月。
これからどうなるかわからない。
こんなところで舞い込んできたチャンスを逃していいものかとも、やはり思いました。
「どうせ失う物なんてないんだ!思い切って引き受けてやる!」
そう思って、「ぜひやらさせてください!」と2社の出版社にメールを返信しました。
失うものがない人間って、強いのです。
そんなわけで僕は、立て続けに2冊の本を出版することになりました。
1冊目は初版で終わり。2冊目はなんとか1度だけ重版になりました。
2冊目がでた後には、大手出版社さんから3冊目のお話をもらいました。
副業でしばらくやっていたとはいえ、独立開業カウンセラーとしては、最高の滑り出しかもしれません。
ところが僕の心の中には、大きな恐怖心が生まれていました。
「僕は数ヶ月前までうだつのあがらない派遣社員だった。
そんな僕を、急にまわりが先生扱いしてくれるようになった。すごい、すごいといってくれる。
でも、カウンセラーとしての自分はまだまだひよっこだ。
すごいカウンセラーだとか、立派な先生だといわれることに、ものすごくギャップを感じてしまう。
いまの自分は、本当は知識も経験も全然足りていない。
それは誰よりも、僕自身が一番よくわかっている。
世間から見えている自分に追いつきたい、追いつかなきゃいけない…。
でも、いくら焦っても知識や経験なんてすぐには身につかない。
いつか、中越のカウンセリングなんてたいしたことないっていわれたら、どうしよう…」
そういう不安感が、いつも僕の中にありました。
特に僕のように、独立開業して有料カウンセリングをしていると、他のカウンセラーとは少し相談者さんのタイプが違います。
その違いとは、「1回のカウンセリングで、悩みが解決する」。そう思ってくる相談者さんが多いのです。
でも、多くの場合、カウンセリングは複数回受けてやっと効果が出てくるものです。
単発のカウンセリングで満足してもらうというのは、なかなか難しいことです。
さらに、「何冊も本を書いているすごい先生なんだから、きっとすごいカウンセリングをしてくれるはず!」。
そんな期待が乗っかってくるのです。
そこに、僕の本を読んで気に入ってくれるのは心底うれしいのですが、そのぶん期待値が上がってしまいます。
「あんなにいい本を書くのだから、さぞかしすごいカウンセリングをしてくれるはず!」
そう思って僕にカウンセリングを受けに来ます。
これが本当にプレッシャーでした。
そして、実際にはまだまだ知識も経験も足りない事実。
化けの皮がはがれるのではないかと、いつも恐怖感がありました。
実際には、文章を書く能力と、いいカウンセリングができるかどうかは、ほとんど関係ありません。
でも、一般の人はそんなことは知りません。
なので、この当時の僕は、焦っていろんなカウンセリングのやり方を勉強していました。
認知行動療法や解決思考ブリーフセラピー、アドラー心理学など、いろんなものを取り入れてみました。
どれも効果はあったし、いまでも使い続けている技法もたくさんあります。
ただ、「これが自分のカウンセリングだ」としっくりきていたかというと、それはまた違いました。
あくまで、「自分の引き出しの中の一つとしてはアリだな」という感じでした。
僕はカウンセリングを学びはじめたころから心理学者のカール・ロジャーズが好きでした。
『静かなる革命家』という本を読んでファンになったのです。
「普段はやさしく穏やかだけど、やるときはやる開拓者魂!めっちゃカッコいいやん!こんな大人になりたい!」
それは、思春期の子供がロックスターに憧れる感じだったのかもしれません。
僕たちカウンセラーの世界では、カウンセリングの神様とかカウンセリングの父とか呼ばれています。
ロジャーズさん本人は権威的に扱われることを嫌がったそうなので、こういう呼び方は嫌がるかもしれません。
でも、実際、日本の民間のカウンセリングスクールでは、ほとんどどこも最初はロジャーズさんの来談者中心療法から学びはじめます。
特に傾聴という、相談者さんの話の聞き方は、全てのカウンセラーが学ぶといっても過言ではありません。
で、そのロジャーズさんが創ったエンカウンターグループというグループワークを学びたいと思いました。
そこで知人に相談したところ、関西人間関係研究センター(KNC)というところがあるから、そこに行ったらいいと教えてもらいました。
帰って早速KNCのサイトを見てみると、なんと静かなる革命を翻訳した畠瀬直子先生の名前がありました!
先生はロジャーズさんのところに留学して、直接ロジャーズさんから学ばれておられます。
簡単にいうと、先生はロジャーズさんの弟子なわけです。
「マジで!?そんなすごい人がやってんの?しかもうちから自転車で行ける距離やん!ラッキー!これも運命か!?」
勝手に運命のせいにして、早速申し込みました。
みなさんだって、ビートルズやマイケルジャクソンの弟子が自転車で行けるところに教室を開いていたら、びっくりするでしょ?それと同じです。
エンカウンターグループは時期的にすぐに参加できなかったので、「感受性を開発するための講座」とかいうタイトルのものに申し込みました。
正直、タイトルはうろ覚えなのですが、15年も前のことですから仕方ありません。
参加初日。
僕はものすごく緊張していました。
「あんな有名な先生が教えてくれるんだから、立派な人が集まっているに違いない。
参加してる人って、ほとんど臨床心理士なのかな。
そうでなくても、経験豊富な人たちなんだろうな…・
そんなところに僕みたいな民間のスクールでちょっと資格を取っただけの人間が参加して、本当に大丈夫だろうか…」
僕は社会人になってから勉強したので、大学、大学院で勉強して臨床心理士になったわけではありません。
実は、そこに対するコンプレックスも長年抱えていました。
不運なことに、カウンセラーになってすぐのころに出会った臨床心理士の人が、すっごく怖くて威圧的で偉そうな人だったのです。
民間で勉強して資格を取ったカウンセラーなど、ザコ扱い。
僕や他の人が口を開くたびに、「それは間違っている!こうであるべきだ!」と否定と批判の嵐でした。
他の臨床心理士さんの名誉のためにいっておきますが、そんな怖くて威圧的な臨床心理士さんは、この業界に15年いてその人だけでした。
他の臨床心理士さん達は、暖かくて優しい人ばかりでした。
どうやら僕は、超レアキャラに最初に当たってしまったようです。
そんなわけで、先生の講座にはじめて参加するとき、僕は自分に自信がなかったので、ものすごく不安で緊張していました。
緊張しながらドアを開けて入っていくと、参加している人は当時の僕よりずっと年配の人ばかりでした。
「やっぱり経験豊富なすごい人が集まっているんだ…」と、よりいっそう緊張してしまいました。
こういうときって、なぜか自分以外の人のことは、すごく立派に見えてしまうのです。
最初に自己紹介のようなものがあったのですが、自分が本を書いているということは秘密にしておきました。
それがバレてしまうと、まわりから僕に対するハードルが上がってしまいます。
なので、この当時の僕は、しょっちゅう本を出していることを、あまり人にいわないようにしていました。
参加初日で一番驚いたことは、どれが先生なのかパッと見でわからなかったことです。
一番最初に出迎えてくれたのと、写真を見ていたので、「たぶんこの人が先生だよな…」となんとなくわかりました。
でも、あまりに参加者の中に溶け込んでいたので、本当にこの人が有名な先生なのかと、確信を持てなかったのです。
「そろそろ時間ね。さあ、はじめましょうか」という言葉を聞いて、やっとこの人が本当に先生なんだだと確信を持てました。
それまで僕が出会ってきた先生という人種は、教壇なりホワイトボードなどの前に陣取っていました。
やさしい先生であったとしても、どこかその場の雰囲気を支配するたたずまいを持っているものです。
僕も人前で話をする仕事をもらうようになってわかったのですが、「しっかりと自分が仕切らなきゃいけない!」というプレッシャーを、先生は感じるものです。
先生という立場になると、場が荒れるのがとても怖いのです。
そうするとどうしても、その場を支配する雰囲気を出してしまうのです。
でも、先生はそういう雰囲気を全く感じさせませんでした。
たとえば、こんな出来事がありました。
先生は講座がはじまってからの10分か15分くらいの時間を、ちょっとした雑談の時間にしていました。
僕のような初めての参加者もいるので、場を和ませようと思っていたのだと思います。
それは本当に関係のない、テレビから流れてくるニュースの話や、参加者の近況報告などでした。
感受性を開発するための講座ということもあって、絵を描いたり自分の感じていることを表現したりすることが多く、自己表現をする必要がある講座だったので、特に気を使っておられたのかもしれません。
月に1回、1年を通しての講座だったのですが、半年ほどが終わった後に、ある男性がこんなことを言い出しました。
「毎回雑談が多すぎます。私は雑談しに来ているんじゃないんです。学びに来ているんです。さっさと講座を始めてくれませんか」
一瞬、場に緊迫した空気が流れました。
すると先生は、「あら。緊張がほぐれるかと思ったのだけれども。じゃあ、さっそく始めましょうか」
そういって、まるで何事もなかったかのように、講座を始めました。
それがあまりにも自然で、あまりにも柔和で、本当に何事もなく講座がスタートしていきました。
こういうとき、この世の中の多くの先生は、自分のプライドが傷つけられたような気がして、ムキになって反論したり不機嫌になったりするものです。
僕自身、人前で話す仕事をもらえるようになったいま、その気持ちもすごくわかるのです。
講師というのは、場が荒れるのが一番嫌なのです。
ところが先生は、まるで太極拳の達人が相手の攻撃を受け流すかのように、まるで何事もなかったかのように、さらっと講座を始めていったのです。
その男性はどこかホッとしたような、うれしそうな表情をしておられたのが、とても印象に残っています。
このときの先生の態度は僕にとってすごく勉強になっていて、「ああ、これがカウンセラーという生き物か」と思ったことをすごくはっきり覚えています。
なんだか上手くいえないのですが、こういう態度で生徒と接する先生に出会ったのがはじめてだったので、すごく驚いたのです。
何年かたって僕の緊張が解け、先生とフランクに話せるようになったころ、こんな質問をしたことがあります。
「あの、先生。教えて欲しいことがあるんですけど。ロジャーズさんってどんな人だったんですか?」
僕が憧れた人。そうでなくても、心理学の歴史に燦然と名を輝かすカール・ロジャーズ。
カウンセリングの世界で、彼の名を知らない人はおりません。
そんなロジャーズさんがどんな人だったのか、ちょっとしたミーハー心から聞きたくなるのも人間の性です。
すると先生は、一瞬だけ黙り込んで頭の中をめぐらし、「あのね。権威というものを全く感じさせない人だったわ」とおっしゃいました。
それから、ロジャーズさんについて、先生がよく話してくれたことがあります。
「あのね。私がロジャーズさんのところに行ったとき。
ロジャーズさんの家の近くに家を借りていたのよ。
それで何日かして、ロジャーズさんと道ですれ違ったのよ。
そしたらね。『直子、カールって呼んでくれないか』っていうの。
私、困ってね~。
日本人ってそういう風習ないじゃない。
私がロジャーズさんのところに学びに行ってるんだもの。
だから、それはできませんっていったの。
それでね。
何日かして、偶然もう一度、同じところでロジャーズさんとすれ違ったの。
その時にもう一度、『直子、カールって呼んでくれないか』っていうのよ。
それで私、ああ、この人本気なんだって思って。
勇気を出してカールって呼ぶことにしたの」
こういうお話を聞いて、「ああ、先生のこの雰囲気は、ロジャーズさんから来ているのか」と、納得してしまいました。
ちなみに、他の生徒さんが同じ質問をするところを、何度か見かけたことがあります。
そのたびに先生は、一瞬黙り込んで考えてから、「あのね。権威というものを全く感じさせない人だったわ」と、おっしゃっていました。
先生はどんな講座のときでも、知識も経験も全然ない僕の意見に対して、「いまの若い人の考え方を知れたわ」とか「あなたのその考え方って大事ね」と、いってくれました。
また、あきらかに僕が知識が足りなかったり、間違ったことをいっているときは、「私が若いころね。こんなことがあったのよ」と、それとなくご自身の体験談を話してくださいました。
僕は「天職・やりたいことを見つけるためのカウンセリング」というテーマで、カウンセリングをして本を書いていました。
当時はずいぶんと変わったテーマで、そういうことを本業にしているカウンセラーはいませんでした。批判的な目を向けられることもありました。
僕はどこに行っても、カウンセリング業界で異端者でした。
そもそも、臨床心理士でもないのに、独立開業しているカウンセラーというだけで、十分に異端者だったのです。
でも、先生はそんな僕の発表に対して、「21世紀のカウンセリングね」と、興味深そうに反応してくださいました。
そこには批判や偏見の目が一切なく、異端者である僕にとって、唯一安心できる場所だったかもしれません。
ちなみに、僕はコロナ禍になるずいぶんと前から、オンラインでもカウンセリングをやっていました。
コロナ禍以前は、「オンラインカウンセリングなんて…。カウンセリングは直接会ってやるべき」という風潮がやっぱり強かったのです。
でもその時も先生は、「21世紀のカウンセリングね」と、とても興味深そうに聴いてくださいました。
僕は先生が新しい価値観や新しいやり方に対して、批判や偏見の目を向けているところを、見たことがありません。
熟練したカウンセラーの意見も、新人カウンセラーの意見も、いつも対等に扱っておられました。
カウンセリングでは、人間は対等である。カウンセラーも相談者さんも、そして生徒も先生も対等である。
この勉強会がそういう場であることに気づくと、とても安心していられる場所になり、引っ込み思案な僕も少しずつ自分の意見を言えるようになりました。
対等の人間関係で関わっていくことが、互いの人間を成長させると考えます。
植物が生長するのに、太陽と水と土が必要なように、人間の心が成長するための一つの要素として、対等な人間関係は欠かせないものです。
そんなの、よく聞く話と思うかもしれません。
ですが、それを実践できている人は、現実にはなかなかいません。
それを普段の勉強会で実践している先生に出会ったことが、僕にとっては大きな出来事でした。
先生は僕達に対して、権威的に振る舞ったことは一度もありませんでした。
それでいて、知識面のことで質問をするといつも丁寧に教えてくださり、いろいろな先生自身の体験談を教えてくれました。
歴史や国際情勢、環境問題にも詳しくて、そういうことに疎い僕はそういう話を聞くのも好きでした。
平和についていつも考えておられたことも、とても印象に残っています。
世の中のいろんなことを知っておくことは、相談者さんの背景を理解するために必要である。
いつだったかそういう風なことをおっしゃっていたことを、覚えています。
その一方で、ロジャーズさんの開拓者精神について他の受講生さんが、「ロジャーズさんのいう開拓者精神ってどんなものですか?」と質問したことがあります。
ロジャーズさんの時代のアメリカ開拓者精神、たくましく道を切り開いていく感覚って、今の時代の日本人にとっては、なかなかピンとこないのです。
その時先生は、まるでいらずらでもするような顔で「ガラガラヘビに気をつけろ。オレを踏みにじる奴はゆるさない」といってにやっと笑っておられたのも、印象に残っています。
これはロジャーズさんがいっておられたそうで、もしかしたらロジャーズさんも、こんなふうににやっと笑っておられたのかもしれません
さて、ずいぶんと話がそれてしまいました。話を戻しましょう。
僕が先生に出会った初めての講座も終わりに近づいてきたころのこと。
その日にどんな内容の講座をしたのか、全く覚えていません。
でもその日の最後に起きたことだけは、まるでビデオで録画でもしたかのように、はっきりと覚えています。
講座の終わりに、今日の講座で感じたことを参加者のみんなでシェアしていたときのことです。
先生がある男性に、「今日はどうでしたか?」と話しかけました。
その男性は、「実は私は、明日はじめてカウンセリングをします。すごく緊張して、正直、今日はこの講座に全く集中できませんでした」とおっしゃいました。
すると先生は、ゆっくりと僕の方を向いて、おっしゃいました。
「あなた、どう思うかしら?」
「え!?ぼ、僕ですか!?」
それまで1年間、ほとんど口を開かなかった僕が話を振られたのです。
慌てふためいてその男性よりも僕の方が一気に緊張してしまいました。
僕は目をパチクチパチクリさせながら、落ち着きなく話し始めました。
「初めてのカウンセリングですか~。う~ん、緊張しますよね~。そうですよね~。いや~、僕もめっちゃ緊張したのを覚えています。
いや~、う~ん。どうしたらいいんでしょうね~。
でも、まあ、覚えているのは、僕、初めてのカウンセリングは無料でやったんです。
それがすっごく緊張して。とにかくこのカウンセリングが無事に終わってくれたら、寿命の半分あげてもいいって思ってやりました。
本当に緊張してガチガチで。でも、本当に魂削る思いでやったのを覚えています。
それでなんとか無事にそのカウンセリングが終わって、2週間くらいしたときに、そのクライエントさんからメールが来たんです。
そこに、有料でいいからもう一度カウンセリングしてもらえないですかって書いてあったんです。
その時すっごく嬉しくて感動して。
お金をもらえるなんて思ってなかったんで、値段なんて決めてなかったから、すごく慌てて3000円って決めて。
なんか僕は子供のころに親から、はじめてもらうお給料ってすごく感動するものやでっていわれてたんです。
でも、僕はじめてのアルバイトも社会人になってからの初任給も、あまり感動しなかったんです。
むしろ、あんなにがんばってこんなものかって思ったんです。
でも、あのときもらった3000円はすごくうれしくて。
うれしいっていうか、自分の好きなこととかやりたいことで人の役に立ってお金をもらえるというのが、本当にすごく衝撃で。
資格を取ってサイト作ってって考えたら、もう何百時間もかかっていて時給でいったら50円以下なんでしょうけど、本当にその時のお金がすごく衝撃的で。
僕、お金を重いって感じたのって、そのときがはじめてなんです。
だからそのお金、何に使ったらいいのかわからなかくなったんです。
それでいろいろ考えて、次に誰かカウンセリング来てくれたときのために、心理学の本を買ったのを覚えています。
あれ、えっと、なに話してたんでしたっけ…。すみません。なんか答えになってないですね。
まあ、あの、そんな感じでした。すみません…」
なんでこういうとき、日本人ってとりあえず謝ってしまうんでしょう。
僕は慌てて緊張して、あたまに思い浮かんだことをとにかく口にしていました。
僕が話している間、誰も口を挟まずに、僕の話を聴いていました。
当時はずいぶんと長く話したつもりなのですが、実際には2~3分だったのかも知れません。
しばらく静寂があった後、先生がいいました。
「あなたみたいなカウンセラーがいて、うれしいわ」。
その言葉を聞いた瞬間、僕の体の芯の部分、食道のあたりがグッと熱くなりました。
それからしばらく、ずっと体がホカホカと少し熱かったのを覚えています。
照れるのに似ている感じですが、照れるのとは少し違う感じです。
本当に必要な言葉を投げかけられたとき、人間の体はこんな反応をするのだと知りました。
いつもの僕なら普通の日本人らしく謙遜して、「いえいえ、とんでもありません。そんな大したことないです」とかいうところです。
でも、そのときの僕は、なぜか自然と「ありがとうございます」といっていました。
それからずいぶんと後になってわかったのですが、どうも上手くカウンセリングが進んでいるとき、カウンセラーが相談者さんのことをポジティブに表現しても、日本人特有の不必要な謙遜をせず、自然とありがとうございますというようです。
これは僕だけでなく、多くの相談者さんがそういう反応をします
家に帰ってもまだなんだか体がホカホカしていました。それはしばらく続きました。
自分になにか重大な変化が起きたということはわかりました。
それと同時に、いま自分の身に起きている変化は、カウンセラーとして絶対に忘れてはいけない重要な経験だということも、直感的にわかりました。
だから、あの時の出来事は、まるでビデオで撮った映像のように僕の心に残っています。
映像としてはこんなにはっきり自分の記憶の中に残っているのに、言語としては先生の「あなたみたいなカウンセラーがいて、うれしいわ」以外、ほとんど何も覚えていません。
当時の他の参加者さんの名前など、どれだけ思い出そうとしても何一つ思い出すことができないのです。
人間の記憶というのは本当に不思議な物です。
とにかく覚えている重要なことは、「あなたみたいなカウンセラーがいて、うれしいわ」といわれた瞬間、僕の体の中にとても大きなポジティブな感情が湧いたということです。
それから何年も「あの時の出来事はなんだったのだろうか。自分もあれをできるようになれるだろうか。どうやったらできるのだろうか」と、考えていました。
それを自分の中で探求することが、僕なりのカウンセリングを作り上げていく、一つの方針になりました。
しばらく考えてわかったことは、その一言が僕の中にある様々な劣等感を、大きく和らげてくれたということです。
本を出しているのに、実際にはカウンセラーとして経験も知識も全然足りず、いつか化けの皮をはがされたらどうしようという恐怖感。
大学、大学院で心理学を勉強して臨床心理士になったわけではないという、資格コンプレックス。
なんだか上手くいえないのですが、僕は自分が立派で優秀なカウンセラーになれるとは、とても思えなかったのです。
カウンセリングの世界で、僕より立派で優秀と評価されている人は、いくらでもいます。
僕は、自分がそういう立派で優秀なカウンセラーになれるとは、どうしても思えなかったのです。
でも、「あなたみたいなカウンセラーがいて、うれしいわ」。
そういってもらえるカウンセラーであり続けることは、いまの僕にも十分にできる。
なにしろ、いままで自分がやってきたカウンセラーとしての在り方が、変わらなければいいだけなのだから。
そして、よくよく考えてみれば、「自分は立派なカウンセラーや優秀なカウンセラーになりたかったのか?」と問われると、そんなことは全く思っていなかったのです。
なんだか本当に上手くいえなかったのですが、元々僕は、「あなたみたいなカウンセラーがいて、うれしいわ」といわれるようなカウンセラーになりたかったのです。
僕にとって一番重要なのは、誰かから「あなたみたいなカウンセラーがいて、うれしいわ」といわれることであり、そういうカウンセラーで在り続けることは、十分に可能である。
それは僕のカウンセラー人生にとって、非常に大きな希望になりました。
「いままで通りのカウンセラーとして、在り続ければいい。それだけで、僕のカウンセラー人生は十分に幸福なものになる」
そう思えたのですから、これほど心強い希望はありません。
この希望があったからこそ、つらい時期も乗り越えてこられました。
何かに迷ったときは、「あなたみたいなカウンセラーがいて、うれしいわ」といわれ続けるには、どうすればいいか。
いや、正確には、どういうカウンセラーで在り続ければ、僕が僕自身を「僕みたいなカウンセラーがいて、うれしい」と思い続けられるか。
それが僕のカウンセラー人生にとって、大きなコンパスになりました。
もしあのときの言葉が、「あなたはもう十分、優秀なカウンセラーよ」でも、「私から見ても立派なカウンセラーに見えるわ」でもダメだったのです。
「あなたみたいなカウンセラーがいて、うれしいわ」。この言葉でないと、ダメだったのです。
もちろん、優秀や立派というのは褒め言葉です。褒められたら、たいていの場合はうれしいものです。
でも、それはどこか他人を評価しているときに使う言葉です。
優秀や立派というのは、何かしら世の中のものさしで人間を測っています。
その結果、よい評価をもらえているときはいいかもしれません。
でも、よい評価をもらえるというのは、悪い評価をされる可能性もあるわけです。
そうなると、いい評価をしてもらえるように固執してしまったり、悪い評価を恐れるようになってしまいます。
評価というのは、ある意味、人を裁くことなのです。
でも、「あなたみたいなカウンセラーがいて、うれしいわ」。
これはあくまで個人的なピュアな感想です。
カウンセリングの技法でも何でもない、ただの感想です。
僕の話を聴いて、先生の中に湧き上がった自然な感情を、そのまま伝えてくれたのです。
そこには何の評価も裁きもなく、ただただ純粋で自然な感想なのです。
そこには、恣意的なものが一切ありません。
だからこそ、僕は素直にうれしかったし、ありがとうございますと自然にいえたのです。
このときの経験は本当に大きくて、後に僕の中でロジャーズさんのパーソンセンタードアプローチと、それまでしっくりきていなかった相手を褒めることや勇気づけ、リソースを見つけることなどが、無理なく一つに統合されていきました。
ロジャーズ流で考えれば、僕の話を先生がしっかりと傾聴して、先生の中に純粋に湧き上がってきた相手にとって促進的な言葉を伝えたことになります。
でも、アドラーはこれを勇気づけというかもしれないし、解決志向ブリーフセラピーだとリソース(資源)を見つけたといえるかもしれません。
僕はこの言葉を受けて、「あなたみたいなカウンセラーがいて、うれしいわ」といわれ続けるカウンセラーであろうと決めたのですから、認知行動療法ではゴールが決まったとか行動課題が決まる一歩手前と考えるかもしれません。
また、ビジネスマンの世界であれば、「褒める技術」といったかもしれません。
熟練したカウンセラーは、学んできた理論的背景は違っても、現場で実際にやるカウンセリングはとても似通ってくるといいます。
ロジャーズさんとは対極に位置するようなミルトン・エリクソンは、ロジャーズさんのカウンセリングの録画を見て、「私のやり方ととても似ている」といったのだとか。
それを考えると、一つのカウンセラーの言動をいろんな理論で説明できるのは、いたって当然のことなのでしょう。
これはカウンセリングの世界に限らず、道も突き詰めていくとたどり着く答えが似てくるというのは、どの世界でもいえることなのでしょう。
さて、では先生はなぜ、「あなたみたいなカウンセラーがいて、うれしいわ」と、いえたのでしょう。
一つには、僕の話を興味深く聴いてくれたからです。
他人の話に興味、関心を持つ。
これって当たり前のことのようで、なかなかできません。
僕たちカウンセラーだって、いざ仕事から離れて日常生活に戻るとなかなかできなくて、他人の話よりも自分の考えや価値観が全面に出でてきてしまいます。
(だからカウンセラーだって、夫婦げんかもすれば親子げんかもするのです。世間一般の人が思っているより、カウンセラーは仕事の場から離れると、迷える子羊なのです)
相手に興味があるとは、相手の心の世界に興味があるということです。
人間は誰もが違う人生を生きてきて、違う価値観を持ち、違うフィルターを通して世界を見ています。
相手の心に興味があるとは、相手がどんな人生を生きてきて、どんな価値観を持ち、どんなフィルターを持っているかに興味を持つことです。
だから、相手の話をちゃんと理解しようとすると、その人がどんな人生を生きてきて、その結果、どんな価値観を持つようになり、どんなフィルターを通して世界を見ているのか。
そこに興味を持たなければなりません。
そこに興味を持つことができて、やっと相手の話を理解できます。
これって当たり前のように感じるのですが、自分とまったく違う人生を生きてきて、まったく違う価値観や考え方を持ち、まったく違うフィルターから覗いた世界がどのように見えるか、自分の脳の中で再構築していくのです。
これは本当に本当に大変労力を使うことです。
そんな本当の意味で相手の話を深く理解できると、世間一般の俗なものさしで相手を測る気など、起きなくなります。
そして、そういうふうに深く相手を理解できると、安易に相手を批判や否定する気持ちなど、起きなくなります。
たとえば、
「ああ、そうか。
この人がこんなに攻撃的なのは、こういう背景があったからなのか。
もちろん、だからって他人を攻撃していいわけじゃないけれど、なんだかそうなる気持ちもわかる気がして、責める気にはなれないよな~」
となります。
自分自身の意見や考えはひとまず置いといて、まずは相手の考えや感覚を深く深く理解し、それを否定せずに受け止める。
こういう話の聞き方、いや、人への接し方を誤解を恐れずに一言で表すなら、それは「愛」になります。
一人の生きている人間に対し、その人の生きてきた背景や価値観、考え方を理解し、その上でその人の言動を受け止め、その人とともに在ろうとする。
それは、人間そのものへの愛なのでしょう。
心理学において宗教的なたとえを出すのはよくないかもしれませんが、それはキリスト教における隣人愛や、仏教における慈愛とほぼ同じものだと思っています。
植物が生長するのに、太陽と水と土が必要なように、人間の心が成長するためのには、対等な人間関係だけではなく、愛が必要なのです。
いや、対等な人間関係というのは、愛の一つの側面なのですから、人間の心が成長するために必要なものは、愛なのでしょう。
愛がある場所では、人間は安心して自分の考えや気持ちを表現できます。
自分の心の中から湧き出てきた気持や考えを表現し、実践していけることほど、人を成長させることはありません。
たとえば、職場で業務改善案を出して、上司がそれを興味深く聴いてくれ、「思い通りにやってみて欲しい」といってくれたら、自然とやる気が出ます。
そして、そこでのチャレンジは必ず人を成長させます。
そこにはもちろん、人間関係に関する気持や考えも同じです。
「学校でいじめられている友達に、なんて言葉をかけたらいいんだろう」、「ケンカして気まずい空気になった夫、妻に、なんて話しかけたらいいんだろう」。
その答えは、「一緒に帰ろう」かもしれません。その答えは、「ケーキ買ってきたから、一緒に食べよう」かもしれません。
心が安心して防衛的にならなければ、自然と答えは思い浮かんできます。
相手の話に興味や関心を持ち、その考えをむやみに否定することなく、安心して表現できる空間を作ること。
そういう空間であれば、人は自分自身の問題解決能力を存分に発揮します。
そして、自分で問題解決しようと様々に試行錯誤していく中で、人間は自然と成長していきます。
先生は僕の知る限り、他のどの受講生の話にも興味・関心をもって聴いておられました。
そして、たとえ講座中に講座の内容とは全く違う個人的な悩みを話し始めても、その人の人生を理解しようと興味深く丁寧に話を聴いておられました。
先生の講座は、ただの勉強会というよりも、安心して自分の内面をさらけ出せる場所でした。
だから僕は、気がついたら15年も通っていたのだと思います。
そういう人間という存在に対して、愛を持って接すること。
これがカウンセリングの核であり、神髄なのだと思います。
そして、そういう態度で相談者さんと接していなければ、どのような技法も役に立たないのです。
逆に、そういう態度で相談者さんと接していると、カウンセリングの中で自然と自分なりのやり方が生まれてくるものです。
カウンセリングの技法が実践の場で生まれる理由は、ここにあると思います。
ただ、心理学の論文や本として、「カウンセリングは愛である」と書かれることはあまりありません。
「愛」という言葉は、あまりにも誤解を招きやすい表現だからでしょう。
愛はあまりにも大きく、幅広いものだからです。
僕自身、いまこれを書いていて誤解を与えないかと、不安を感じています。
専門家として愛という表現を使うことは、とても勇気がいることです。
でも、先生の書いた『カウンセリングと出会い』を読んでいると、こんなことが書いてありました。
『こういった治療者の挑戦によって築かれるクライエントとの関係には、古来から人類が求めてきた「愛」と呼べるような相手への深い受容が含まれている。』P30
愛は、測定することはできません。
なぜなら、世間一般のものさしで人を測ることなく、その人そのものを理解し受け止めることが愛なのですから、なんとも科学的に測定するのが難しいのです。
測定できないものを、マニュアル化したり技法にすることは不可能です。
なので、「こういう相談者さんが来たときは、こう対応すればOK!」
そんなマニュアル通りのカウンセリングは、決してうまくいくことがありません。
「なんだかこのカウンセラーは、私の考えなんて置いてけぼりで、カウンセリングの技法に当てはめて対応している気がする…」
相談者さんにそう思われては、カウンセリングは上手く進みません。
愛はマニュアル化することができないので、カウンセリングもマニュアル化することができません。
だからこそ、カウンセリング的な人との接し方だけは、本ではなかなか学ぶことができず、体験学習が必要になってきます。
実際に自分がカウンセリングを受けたり、グループワークの中で体験していくことがとても大切です。
そのことに関して、もう一つ先生との印象深い出来事があります。
僕が先生と出会って、2~3年目のころ。
僕は、「先生のやり方をよく見て、盗めるようになりたいです」といったことがありました。
超就職氷河期でブラック企業で育った僕は、「仕事なんて教えてくれなくて当たり前。自分で見て盗むもの」と育てられてきました。
すると先生は、こんなことをおっしゃいました。
「あのね。見て盗むのじゃなく、対話を通じて学んでもらえたらうれしいわ」
いまになって考えれば、あまりにもその通りです。
人を愛する方法なんて、盗めるわけがないのですから。
これからカウンセリングを学ぶみなさんが、マニュアルにとらわれたカウンセリングをすることなく、目の前にいる人をよく見てよく聴いて、その上で自分の中で熟成した暖かい一言をかけてくれたらとてもうれしく思います。
僕自身、そういうカウンセラーになりたいと、今でも思い続けています。