カウンセリングとは

カウンセリングとは



対話には深いニュアンスがある



逆に、「対話」という言葉には、どこか小難しいニュアンスがあります。

夫婦で本音をぶつけて話し合い、何十分という沈黙があり、最後の最後に相手の目をしっかりと見つめ、なんとか今の自分の気持ちを言葉にしようとして、

「元通りになれるかといわれると、よくわからない。でも、やっぱり、まだ一緒に生きていきたいと思ってる」

といったとします。

そういわれたら、相手も少し心の防衛が解け、

「自分も、まだ気持ちの整理はつかないけれど、一緒に生きていきたいと思っている」

といってくるかもしれません。

そうなると、互いの気持ちをより深く理解し合い、まだ少しわだかまりはあるけれども、互いのなかにある「一緒に生きていきたい」という感覚と出会い、共有することができます。


これは、「行ってきま~す」のチューとは深みと重みが全く違います。そして、単に仲がいい夫婦よりも、深い絆がある感じがします。

肌は全く触れあっていないのに、心がふれあっている感じがします。


こういう深みや重みのあるコミュニケーションが、「対話を通じた出会い」です。


「対話」とは、お互いが本当に思っていること、感じていることを、互いにもっと深く知ろう、理解しようと思い合い、あらゆるコミュニケーションを積み重ねる行為です。

気軽な会話とは違う真剣さが、小難しいニュアンスを与えるのかもしれません。


たとえば、地球にはじめて宇宙人がやってきたときに「どうやって宇宙人と会話しよう」だと、なにか変です。

それよりは、「どうやって宇宙人と対話しよう」のほうが、しっくりくる感じがします。


これは地球人と宇宙人という全く互いを知らない他者と他者が、なんとかコミュニケーションを図り、なんとかお互いに気持ちや感覚を伝え合いたい。

単なる「ハロー」だけではなく、相手がどういう価値観を持ち、どのような生き物なのか、多大に深く知り合いたいのです。

そこには会話とは違う深さがあります。





対話という必要性があるから自分自身に気づける



対話の深さは、本当に計り知れなくて、

「自分自身ですらまだ気づいていない感覚。

いわれてみればなんとなく自分のなかにある感覚だけど、日常生活のなかでは、わざわざそんな感覚に目を向けることがなかった感覚。

だからこそ、自分自身の頭の中ですら、一度も言葉として表現されたことがない感覚」

そういう感覚すら、いや、そういう感覚こそを、知り合う行為です。


対話をしながら、なんとか相手に自分の感じているものを伝えようとすると、

「自分のなかにモヤモヤとして存在はしていたけれども、いまだかつて一度も言葉にしたことがなかった感覚」

までをも、なんとか表現して相手に伝えようと試みなければなりません。


たとえば宇宙人に、

「地球人は、どんな生き物ですか?」

と質問されたら、

「自分たち地球人は、どんな生き物だろう?」

とまずは自問自答し、自分のなかにある地球人像を、なんとか言葉にして表現しなければなりません。

「地球人は平和な生き物です」

そう答えたいと思った瞬間、でも戦争の歴史も頭の中をよぎり、平和な生き物というのは、正直で誠実に自分の感覚を表現できていないと気づくかもしれません。

「地球人は平和な生き物ですと答えるのは、何か違和感がある。ウソをつくつもりはないけれど、どこか正確でない感じがする」

そんな感覚が沸いてくるかもしれません。


そこで、より自分のなかの感覚を丁寧に味わい、探り、ゆっくり時間をかけて言葉にしていくと、

「これまでたくさん戦争もしてきたけれど、本当は平和を望む生き物です。いや、まだまだそういう生き物にはなれていないけれど、これからはそういう生き物になっていきたいと思っています」

そう答えるかもしれません。


そうやって自分の感覚をより味わい、探り、正直で誠実な言葉として、丁寧に表現していくなかで、僕たちはいままでの自分たちの生き方を省みることができます。

それによって、よりよい生き方とは何かを、見つめ直すことができます。

これは、僕たちがじっくり時間をかけて心の中を見つめ直せば、いつでも考えられる答えかもしれません。


でも、人間というのは、相手に伝える必要がなければ、わざわざ自分のなかの感覚を言葉にして表現しようとしません。


宇宙人という対話の相手ができたからこそ、やっと僕たちは自分のなかにある「地球人とはどんな生き物か?」という感覚を表現しようと、重い腰を上げることができるのです。

これは、レポートの提出期限がなければわざわざ自分の考えをまとめないのと同じです。

人間は必要に迫られなければ、わざわざ自分のなかにある感覚を、自分の頭の中でさえ、言葉にしようとしません。


だから、僕たちの頭の中には、とてもたくさんの感覚があるけれど、そのほとんどは言葉にされることはなく、無意識のなかを漂い、流れているだけです。

「元通りになれるかといわれると、よくわからない。でも、やっぱり、まだ一緒に生きていきたいと思ってる」


この感覚は、夫婦喧嘩をしているときも心の奥底にはあったけど、意地やプライド、嫉妬や怒りが邪魔をして、見えなくなっていたのでしょう。


じっくりと自分のなかにある感覚を味わい、正確に、そして互いに意味があるように丁寧に言葉にすることで、やっと自分自身の気持ちにきづけたのです。

互いをよりよく知り合うためには、そういう言葉になっていない感覚をとらえ、なんとかそれを正確に表現する必要があります。

そうなると自然と、自分ですら気づいていなかった自分自身に、気づかされることになります。



感覚を言葉にすることで自分自身に気づける


人間は自分のなかにたくさんの感覚を持っていますが、それを言葉にしなければ、概念としてうまく扱うことができません。


たとえば、赤いニットが欲しいとします。

でも、赤には本当にたくさんの赤があり、無限のグラデーションがあります。


「赤いセーターが欲しいねん」

「こういうやつ?」

「いや、こんなに真っ赤じゃないの」

「朱色みたいなん」

「う~ん、それとも違って、もうちょっと紫がかってるかな~」


こんな会話を何回もやり取りしながら、ふと洋服屋さんでちょうどいい色のセーターを見つけこういいます。


「これこれ!こういう色のセーターが欲しかってん!」


こういう経験は、誰にでもあると思います。


では、なぜ、このセーターの色を伝えることができなかったのでしょうか?

それはこのセーターの色の名前を知らない。

もしくは、まだその色には名前がつけられていない色だからです。


紫がかった赤には、臙脂色(えんじいろ)という色があります。(いまこれを書くために調べて、僕もはじめてえんじ色がどんな色なのか正確に知りました)

でも、「えんじ色よりも、もうちょい赤より」とか、「えんじ色よりもうちょいオレンジより」などを考えると、まだ名前がついていない色なんて、自然界には無限にあります。


そして、僕たちの心は、実はこういう名前がついていない感覚であふれかえっています。

たとえば、僕たちは日常生活で、「頭がズキズキする」とか「頭がガンガンする」とかいいますが、「ズキズキともガンガンともちょっと違うんだよな~」と感じたことがあるはずです。

むしろ、そういう身体的感覚は、言葉として上手く表現できることの方が、きわめて珍しいです。

「頭がガンガンする」という言葉がよく使われているので、とりあえず病院に行ったときに、「頭がガンガンするんです」といいます。


でも、本当は

「なんかね、頭の中に血管あるじゃないですか。

その血管をホースみたいにグッてつまんだら、ピューッて血が勢いよく飛び出していくじゃないですか。

あんな感じで頭の血管がグッてされて頭の血がピューー!ってなって頭の中が血の圧力でパンパンになってる感じで頭が痛いんですよ。

いや、でも別に本当に頭の中が出血してるとかじゃないんです」

と感じてるのかもしれません。


でも、そんなのわざわざ言葉にするのは面倒だし、病院で変な人だと思われたら嫌なので、とりあえず「頭がガンガンするんです」と僕たちはいってしまいます。


ちなみに僕は肩こりでよく偏頭痛になります。

そのときこの「脳の血管をホースみたいにグッとされて、血がピューッてなって血の圧力でパンパンになってんじゃないかって痛み」を感じます。

この原因が肩こりだとわかったとき、「ああ、本当に血管が圧迫されていたんだ」と思って、なんだか妙に納得したことがあります。

ずいぶん昔からこの偏頭痛に悩まされていたのですが、やっぱり病院で変な人と思われたら困るので、この話はしたことがありません。



こんなふうに、本当は僕たちの心の中は、言葉にならない感覚で埋め尽くされています。

自分自身の感覚としては、「たぶん、こういうことなんじゃないかと思う」と思うことがあっても、その感覚はなかなか言葉にできません。

むしろ、言葉として意識に上がってくるものなんて、ほんの少しです。


そして、この言葉になっていない感覚を言葉にしていく過程で、僕たちの心は整理され、自分にとってなにが大切なことかを、明確にしていくことができます。


野球の天才バッターに、「どうやってヒットを打つんですか?」と質問したとします。

すると、その天才バッターは、「ボールがビュッてきたら、ズバッてバットを振るんですよ」と答えたとします。

おそらく自分のなかにバッティングの秘訣のようなものがあり、それを伝えたい気持ちはあるのでしょう。

でも、その感覚を言葉にするのが、とても難しいのでしょう。


でも、それをなんとか言葉として表現できるようになったとき、頭の中でバッティングの秘訣が整理され、よりバッティングがうまくなるのです。

感覚から理論になることにより、さらにその感覚を自己理解し、いつでもその感覚を発動できるようになるからです。