子供の名前に込めた感覚を自分でもわかっていなかった
たとえば、僕自身の話だと、こんなことがありました。
僕は自分の子供に「天」という名前を付けました。
子供が生まれる前から、名前は「天」がいいと、僕は奥さんに強くプッシュしていました。
そのために、あらゆる言葉を尽くして、プレゼンテーションしました。
「あのさ、僕、中越裕史やろ。この裕史って、縦に書いたときに史の字がバランス悪いねん。
史が人間やとして、下半分を足やと考えて欲しいねん。史がフィギアスケートの選手やと、多分、回転ジャンプしたあと着地でこけると思うねん。
たぶん、足首捻挫するこけかたやで。
長年、中越裕史って書き続けてきて、ずっとバランス悪いよなって思っててん。
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※縦に書くとこんな感じです
中
越
裕
史
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しかも、一番上の「中」が左右対称やのに、一番下の「史」は微妙に左右対称じゃないねん。
だからさ、左右対称の漢字がいいねん。
でも、下の名前、木はおかしいやろ。中越木って。それは樹木の名前やん。
だからって、森も変やん。中越森。それただの地名やん。新潟県あたりの地名やん。
(そういう名前の人がいたらすみません)。
それでいろいろずーっと考えててんけど、「天」がいいと思うねん。
漢字のバランスもいいし、響きもいい。縦に書いても絶対に足首捻挫せえへんやろ。
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※縦に書くとこんな感じです
中
越
天
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なにより、天からの授かり物、天の導き、天使の天。
小学生くらいになったとき、自分の名前の由来を聞いてくると思うねん。
その時に何の意味もない名前より、天からの授かり物、天の導き、天使の天。そういう優しい子になって欲しいっていえたほうがいいやん」
僕は長年、子供の名前になんてまったく興味のなさそうだったのに、急に熱弁をふるうので奥さんはびっくりしていました。
最後の方は、
「ほら、このゲーム見てよ。拳を極めし者が必殺技決めたら、画面に「天」の一文字がでんの。超かっこよくない!?」
そんな奥さんがまったく興味を持ってくれないプレゼンになっていました。
ただ、僕の熱意だけは伝わったのと、「天」という言葉の響き、バランスの良さは伝わったようで、無事に「天」の一文字に承認が下りました。
そして実際に子供が生まれると、いろんな人から「なんで「天」っていう名前にしたの?」と質問をされます。
そのたびに、僕は天からの授かり物だからとか、天使の天とか、文字のバランスがいいからと答えていました。
でも、本当は僕自身、なぜ天という名前を付けたかったのか、ずっと自分自身でもわかっていなかったのです。
僕が天という一文字に込めた感覚は、なんとも言葉として表現しにくい感覚だったからです。
天という名前にしたいという感覚は、僕の中にちゃんと存在していたのですが、それがどういう意味を持っているのか、自分でもよくわかっていなかったのです。
それから約1年、自分のなかでなかなか言葉にならず、奥さんにプレゼンした言葉も、なんとも自分のなかで消化不良でした。
別にゴリ押しするつもりはなかったのですが、天という名前をプッシュしたいから、なんとか理由付けをして、思いついたことを言っていたのかもしれません。
(ただ、左右対称の字にしたいと思っていたのは本当です。裕史の史は足首捻挫しそうなのです)
で、先日、うちの天さんは1歳の誕生日を迎えました。
この1年、本当にいろんな人から、「なんで天っていう名前なの?」とたくさん質問されました。
そして、誕生日から数日が経った日、天さんが早めに寝てくれたので、珍しく夫婦でゆっくりと話をする時間がありました。
そこでまた、「なぜ天という名前にしたのか?」という話になりました。
というのも、「本当に小学校の宿題で、自分の名前の由来を親に聞いてこいと言われたらどうするか?」という話になったのです。
僕は、すこしゆっくり自分のなかに意識を向けて、深く自分の感覚を言葉にしようと、丁寧にその感覚を味わい、その感覚をどうすれば表現できるのか、たどたどしく話をしていきました。
「あのさ。30年くらい前やねんけど、おばあちゃんの家に、格言みたいなん飾ってあってん。
そこに、「天 地 人」ってかいてあってん。
「天 地 人」の本当の意味は知らんねん。
でも、この天って言葉ってさ。この世のあらゆる善きものを、一文字で表現してる気がするねん。
真理とか誠実さとか道(タオ)とか大自然に対する畏敬の念とか。
なんか言葉にはできひんけど、そういう深く善きもの全てひとまとめにして「天」やねん。
なんかさ、僕が中学生くらいのときに、少年が猟奇殺人する事件があってん。
そのとき「なぜ人を殺してはいけないのか?」っていう問いに、テレビの大人達がうまく答えられへんかってん。
僕はその時のテレビの大人達と同じくらいの年齢になったけど、やっぱり僕も何で人を殺したらいけないのかって、理屈で説明するのって無理やねん。
実際に戦争はあるし、死刑もあるし。
それを説明しようとしても、死刑がない方が実は再犯が減る。だから死刑はよくないって説明するのも、なんか違うやん。
人を殺して良くなくて、豚や牛は殺していいっていうのも、やっぱり理屈で説明しきるのは無理やん。
でもさ、ある程度、大人になってきたら、なんでかわからんけど感覚的に人を殺すのは良くないことってわかるやん。
豚や牛も、できれば虫だって、できる限り命は奪わない方がいいっていう感覚が、自然とわかるようになってくるやん。
実際には羽虫は殺すし、食べ物残すことだってあるけど、なんかそれはよくないことっていうのは、なんとなくわかるやん。
これって、多少の文化の差はあっても、人間が持ってる自然な感覚やと思うねん。
いや、なんか大きな話になるけど、人間だけじゃなくて、この世の生きとし生けるもの全てが、どこか深いところでこういう感覚を持ってると思うねん。
人間の子供も、動物の子供も、小さいときはいたずらで虫とか生き物を殺したりするけど、大きくなったらそんなことせえへんくなるやん。
なんかそれは善くないことって、なんとなくわかってくるねんよな。
それで、その感覚って、とても深くて大事な感覚やと思うねん。
なんか本当にうまく言われへんけど、そういう僕たちが本来は感覚的に持ってる深く善き判断みたいなものに、耳を傾けられる子になって欲しいねん。
そしたら、それはきっと優しい子やし、学校の成績とは違う知性を知る子になるやろうし、命の大切さや生きる喜びを感覚的に理解してくれる子になると思うねん。
人間って、それさえわかってたら、ある程度、どんな状況になっても、いい人生になると思うねん。
そこからズレへんかったら、もうそれでいいねん。
なんか本当にうまく説明できひんけど、そういう深い雰囲気とかニュアンス全部ひっくるめて「天」やねん。
ただの空やとただの空やけど、天空になったら、この世の真理に近づいたニュアンスになるやん。
なんとなくわかった?」
「うん。なんとなくわかった。でも、小学校の宿題としては、難解すぎるな~」
「せやな~。そこは、天からの授かり物とか、天の恵みってことにしとけばいいんちゃうかな~」。
このとき、僕と奥さんは、はじめて天という名前について、対話をしました。
僕自身、自分でさえわかっていなかった天を言う言葉に込めた思いを、はじめて自分で言葉にしました。
このことについて、自分の頭の中ですら、ちゃんと考えたこともありませんでした。
この話をするまで、おばあちゃんの家に、「天 地 人」という格言が飾ってあったのも、すっかり忘れていました。
僕は「ボールがビュッてきたら、ズバッてバットを振るんですよ」と同じ感覚で、「名前は天がいいに決まってるでしょ」と感じていたのです。
奥さんは10分も20分も、ただわけのわからない、まとまりのない僕の話を、なんの反論もせずに、じっと黙って聞いてくれました。
奥さんは僕の「天」に対する感覚を理解しようと、耳を傾けてくれました。
だから僕は、最初はたどたどしかったけれども、自分の感覚を言葉にすることをあきらめず、ちゃんと味わいながら少しずつ丁寧に表現していけました。
僕は自分自身の感覚と対話をすると同時に、奥さんと対話していきました。
いま、これを書いていてふと気づいたのですが、おそらく僕は、そんな深い意味を子供の名前に込めたことが、なんだか気恥ずかしかったのです。
天さんは僕が40歳を過ぎてからできた子供です。
それまでの40年間、あまり子供に興味がないような顔をして生きてきた自分が、子供の名前にそんな深い意味を考えていたというのが、奥さんに対してはもちろんのこと、自分自身でも恥ずかしかったのです。
いや、僕の父はお酒を飲んでは暴れる人だったので、僕は父親というのがどういう存在なのかよくわからないまま、父親になろうとしていました。
父親っていうのが、どういう顔をして振る舞っていたらいいのかわからず、戸惑っていたのだと思います。
それはあまり自分でも目を向けたくない部分で、そこを深掘りしたくなかったのだと思います。
なんだか本当にうまく言葉にできないのですが、「子供の名前を考える父親」っていうのが、どんな顔をしていたらいいのかわからずに戸惑っていたのです。
そして、そんな自分自身に、すごく恥じらいがあったのです。
「なんでそんなことを恥ずかしがるの? 子供思いのいい父親じゃないか」と思うかもしれません。
でも、人間の悩みというのは、他の人からすれば、多くの場合、「なんでそんなことを気にしてるの?」ということがほとんどです。
40歳を過ぎた僕は、自分の前髪を気にすることはほとんどありません。
でも、思春期のころは、「前髪を切るの失敗したから、学校行きたくない…」と思ったのです。
大人からすれば、「なんでそんなことを気にするの?」と思うことです。
でも、「前髪を切るの失敗したから、学校行きたくない…」という思春期の感覚ってどんな感覚なんだろうと、なるべく正確に理解しようとする。
それこそが、相手に寄り添うことであり、対話の第一歩になります。
僕の奥さんはからかうことなく、なんの批判もすることなく、真摯に、丁寧に、天という一文字に対する僕の感覚を理解しようと耳を傾けてくれました。
だから僕は、自分自身でさえ気恥ずかしくて深掘りするつもりのなかった感覚を、たどたどしくも味わいながら、なんとか表現しようと試みたのです。
この瞬間、僕と奥さんは、「天」という一文字について、本当に対話することができました。
子供が生まれるまえ、僕が奥さんにプレゼンをしていたのは、ただの会話に過ぎません。
そういう会話も、それはそれで大事なことだけれども、そこには深さが足りていません。
なにより、僕自身も、天という文字に込めた思いに、気づいていませんでした。
ただ、うまく言葉にできないけど、「名前は天がいい」。そんな感覚があっただけです。
奥さんと対話するうちに、なんとか自分の感覚を伝えようと、深く自分の感覚にアクセスし、味わい、なんとか言葉として表現しようともがいているうちに、うまく伝わらないけれども、なんとなく伝わったのです。
そして、こうして対話しているうちに、僕は自分の子供に対する思いや価値観がより明確になっていきました。
それにつれて、自分がどのように子供に接していきたいのか、どんな子になって欲しいのか、ほんの少しわかった気がします。
そして、僕が父親としてどんな背中を見せればいいのかも、ほんの少しわかった気がします
それは、親として、そして1人の人間として、ほんのちょびっと成長したということでしょう。
頭の中や心の中の言葉にならない感覚を、なんとか言葉にしていくという作業には、そういう働きがあるのです。
頭や心の中にある言葉にならない感覚を、言葉として整理し、表現することによって、人間はほんの少し、より自分らしい人間として、成長することができるのです。
こういう対話により、僕たちは人間的に成長し、問題を乗り越えていきます。